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ウェイン町山のモンドUSA  嫌いな映画が99

映画評論 町山智浩

ウェイン町山のモンドUSA 嫌いな映画が99 - YouTube

 

どんな映画が好きかなんて余計なお世話だっていうね、あのう、嫌いな映画が99ですよ。1ぐらいしか好きな映画なんて無いですよ今は。どんな映画がぼくが本当に好きかっていうことはぼくが出した本があるんでそっちを御覧になっていただいたほうが早いですね。映画の見方がかわる本っていうのを出してるんですが、その中で何が良い映画で何が悪い映画かっていうことはっきり言ってますよ。

で、具体的に言っちゃうと、要するに商業主義の映画は嫌なんですよ。作り手が自分が言いたい事があって作ってない映画は嫌なんですよ。自分がやりたいことがあってやってなくて、単に金儲けがしたいとか、世間がそれを求めているとか、マーケティングでこういう観客層がいるからこの観客に向かって映画を作ろうとか、こういう考えで作られた映画っていうのは大っ嫌いなんですよ。

で、80年代以降そういう映画ばっかりになるんですね。日本もそうだしアメリカもそうなんですが、要するに電通に代表されるようなマーケティングっていう考え方が出てきてですねえ、自分が作りたい映画じゃなくなってくるんですよ。映画監督とか。そうじゃなくてこういう映画が当たるから作ろうよっていう一つの商品になってくるんですね。そういう映画は絶対に面白くないですよ。何も面白くない。

だってそれは観客が求めてることに答えようとする映画でしょ。それで面白いわけないですよ。矛盾してるように聞こえるかもしれないですけども、つまり観客っていうのは凡庸なんですよ。世間一般の人に向けて作られてるとしたら、世間一般というのは凡庸なことは世の中見れば分かるじゃないですか。世間一般の人が優れてたり、世間一般の人が特殊だったりしたら、世間一般じゃないですから。

世間一般というのは、一般的で、平均的で、凡庸なものを言うわけですよ。ところが映画監督とか作家っていうものは芸術家ですからそうじゃない人達でしょ。そういう人達が自分の言いたいものを作るのが芸術なのに、そうじゃなくて、世間に合わせて世間以上のものが出来ないですよ。
それは普通のものになっちゃうんですよ。面白いわけないじゃないですか、そんなものねえ。

例えばいちばん単純なことを言えば、人を殺しちゃいけないっていう映画を撮っても面白くも何とも無いじゃないですか。ところが映画監督っていう人は、もしかすると、ある時によっては、人を殺さなきゃいけない時もあるかもよっていうことを言うわけですよ。

社会の常識にたいして、ちょっと疑問を投げかけることが出来るんですね。ところが、世間一般の常識にあわせて作ったら、そういう常識から外れることは絶対結論として無いわけですよ映画としては。

それが良いかどうかは全然別の問題として、そういうことを言うことは無いわけですね。例えば愛が大事だっていう考え方に対して、愛って実は大事じゃないんじゃないのっていうことをいうことも出来るわけですよ映画、芸術っていうものは。

ところが世間一般ではそういうことは言わないんですね。

で、スピルバーグが最近発表したんですが、正式な意見としてですね。今の映画は、テストスクリーニングによって作られていて、テストスクリーニングによって結末が決定されていると。そんなものは糞食らえだってスピルバーグが最近発表したんですよ。

テストスクリーニングっていうのは、ランダムに観客を集めてですね、いきなり映画を上映するんですよ。
で、それを見た後にアンケートを取るんですね。で、これは良いかと、で、それによって結末を変えたりするんですね。それで良い映画が出来るかっていったら出来るわけないんです。

というのは、その映画を求めてきた観客じゃなくて、一般の本当にランダムな観客に見せたわけですよね。てことは、例えばですけども、主人公が死んだりする映画だったり、悪が勝つ映画だったりした場合に一般の人がどう思うか。

おそらく、多数決でその映画は絶対に嫌だと思うに決まっているわけですよ。多数決で決めちゃったら。ねえ。したらどうなるか。ハッピーエンド以外、そんなテストスクリーニングによって決定されると、ハッピーエンド以外は通用しなくなっちゃうんですよ。

ところが芸術家が作る映画は、80%の一般人が嫌だっていう映画も作ることが出来るわけですよ。
その変わりそれは後からどんどん支持者を増やしていって、そのうちに良い映画となるかもしれないわけですよ。
ところが、テストスクリーニングとか一般に合わせると、マーケティングに合わせると、そのときの観客は喜ぶかもしれないけど、後で名作になることっていうのは、ほとんど有り得ないですよね。

で、もっと言っちゃうと、映画っていうものは世間一般の人に対して作られてるわけじゃないんですよ。
その映画を見たいと思う人のために作られてるんですよ。

だから例えばマーティン・スコセッシの映画っていうものは、例えばですけど、公開された時に、マーティン・スコセッシというのは暴力が悪いと思ってない人ですよね。映画見れば分かるんですけど。暴力に取り付かれた男ですね。でしょ?で、人間みんな死ねば良いんだみたいなすごいなんかペシミスティックな暗い欲望に取り付かれた監督ですよ。ねえ。

彼が作る映画っていうのはそういう傾向でしか終わらないで、そういう暗い話でしかないわけですよ。それで世間一般でアンケートとってランダムな観客にアンケート取ったら、たぶん50%以上の人が嫌な映画だって言うに決まってるんですよ。だから言ってるんです。マーケティングで作られた映画は全く意味が無くて芸術っていうものを偶然の芸術とかですねえ、芸術家が非常に個人的な気持ちで作った作品っていうものは通用しない世界になってきているんですよ今。

全てが商業主義でマーケティングで。僕はそういう映画大っ嫌いなんですよ。たとえ間違っていても、その人が言ってることがたとえおかしくても、その監督自身の強固な意志によってですねえ、作られる芸術っていうものは、あるはずなんで、それが芽をつぶされていっちゃうのが今の社会なんですね。

それは世間一般全てそうですよ。だって観客多いほうがいいわけだから。映画に限らないですよ。本でも何でもそう。ねえ。こんな世の中だからねえ、面白い映画なんか全然出来ないんですけどね。だからぼくが好きな映画だっていうのは、たとえ間違っていても作り手の本当に個人的なですね、気持ちが出てる映画が好きなんですよね。


それはコメディ馬鹿映画でもいいし、あの、何でもいいんですけど、往々にしてですね、金儲け主義で作られているような馬鹿映画のほうが規模がちっちゃいために、テストスクリーニングとかですねえ、マーケティングによって作られてないんで、けっこうそういう映画が隠れてたりするんですよ。で、大作ほどあのうお金をかけてるから、危険、リスクが高いんで、マーケティングに頼って、作られてるんでつまらない場合が多いですね。


ただスピルバーグとか一部の巨匠の場合には、それを強行してですね、マーケティングと関係ない、映画に作ることが出来るんですよ。本当にゲテモノ映画とかのほうが最近はだから作家性っていうのが出てたりするんですよ。

いい加減な気持ちで作ってるから、マーケティング関係ねえから適当にやらせとけっていう映画の方が実は非常にある意味芸術的だったりするんで、その辺はどれだけのプロダクションになっちゃってるのか、ってことと関係してくるんですね。どれだけ作り手がコントロール出来てるのかと。

で、もう大きい映画になっちゃうと、出資者で出てきていろんな会社が出てきてそれで、もうプロデューサーが出てきて、いろいろぐちゃぐちゃになっちゃって、一つのビルを作るような作業になっちゃうんで、もう全然、誰の思いも反映されない一つの企業が作った商品になってしまうんですよ。それが大っ嫌いだということですね。まあそういうことでした。はい。

 

ウェイン町山のモンドUSA(2002~2003)第十二回からの抜粋